昭和五十四年四月二十六日 朝の御理解
御理解第二十七節
「昔からあの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど人に悪いことをせぬ正直者でも、人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ。」
「信心しておかげを受けるということは別物」という、なにかしら、そのものズバリにスパット教祖様は言うてのかしておられますですね。本当に「信心しておかげを受ける」ということは、確かに日々お取次させて頂いて思いますですね。お願いをする、一心を立てる、どうでも、と言うておかげ受けますですよね。けれども、昨日、私はお食事の時に、先日の久留米の記念祭に、私は、お説教頂かずに早く立ちましたから、高橋さんに聞いたんですけれども、その中で静岡の教会長先生が講師で見えとった。その先生がお話なった中に「信心は喜びと、驚きの生活が出来る様にならなければ」という言葉を言われたと言うんですね。「信心は喜びと驚き」もう、これは私共の、これ私の信心は、日々が有難いと驚きの連続です。ね。もう本当に、初代が素晴らしい信心を頂いておられたということが、それでわかるですけれども、もう神様を頂きに頂き続けると言うでしょうかね、そこにはね、もう、只、只、畏れ入るばかりの働きを、そこに見、感ずるから驚きと表現しておられるのでしょう。ね。勿論、信心の喜び、だから、その、そういう信心の喜びとか、身をもって日々神様を感動的に受け止め、いうなら、驚きをもって受止められる。という様な信心は、ただね、これは言うならば正直者としての精進がなされなければ、言うなら、それを、またの御理解では「信心は変人になれと、変人にならんと信心は出来ん」と仰っておられますね。変人ね、言うならば、信心をさせて頂いて、本当に改まって、神様一途に、一にも神様、二にも神様という生き方をすると、世間ではそれを「あの人は変わり者だ変人だと」いう程しに、世の中にはまともな人がいないということ、真の道を行く人達の事を、変人と見なければならない程しに、世の中の沢山な人がおりますけれどもね。だから、信心で言う変人という事は、言うならば、信心で言う正直者の事なんです。ね。正しく直くね、言うならば、いよいよ真の道を求めて、いうなら「日に日に改まりが第一、本心の玉を研くもの」そういう所に焦点をおいて、信心を稽古させて頂く人でなからなければね、ならないということ。「おかげは、なら、そんな正直者にならなでもね、いうなら、ずるうしとっても、人でもおかげおかげ受けられるなら、もうこのままで行こう。」と成程、おかげは受けますでしょう。けれどもね、言うならば信心の喜びとか、神様を日に日に驚きをもって感じる様なおかげは受けられない。私は、そういう信心を徳を受ける信心だと思うですね。日に日に信心の喜び、しかも感動的に神様を受け止める。「畏れ入ってしまうなぁ。神様の働きには」それが日々です。それこそ驚きを持って感ずる程しの、神様はね、不正直者では、それを感じる事は出来ない。「おかげを頂いて有難い」だけなら言うけれどもね。思うけれどもね。それがね喜び、信心の真の喜びにはつながらない。感動的に神様を受け止めるといった様な事にはならないね。どんなに、なら合楽理念をマスターしたと言うてもです、勿論、合楽理念をマスターすれば、第一に研くことだ改まる事だと、いう事が言われますけれどもです、を私は信心としていかなければね。私は、その話を聞いて、本当に驚きました。ね。けれども、そういう言うならば信心が、今の教団から、もう本当に影をひそめておるという事です。これは、教団というよりも、信心頂いている者と言ってもいいでしょうね。「信心ばしとるけれども、ほんに神様ちゃ有り難かですばい。御利益を受けますばい」は言うけれどもね、驚きを持って受け止める様な、日々という人やらは少ない。お徳を受けられたという方達は、もう皆なそういう信心の喜びと、言うなら驚きを感じながら、日々、信心修行に励んだ方です。ね 言うならば、「変人にならんと」と仰る変人、言うならば、誰が何と言うても貫くね。まぁ教祖様なんかが一番のお手本であられたわけです。「神様の言うならば、仰せには背かれん」という生き方を、身につけて行く信心からでないと生まれてこない。
そこで私は、ここへ出て参りましたのは、もう、十二時だっだでしょうか、御祈念に入ろうとしよりましたら、佐田恒行先生が出て参りましてから、最近ずーと胃を痛めて、毎日胃が痛むらしい。只、苦しい苦しいであったが、今日、始めてその痛む事に有難いと言うものを感じました。それをこう言ってます。「もう、とにかく今日は、嬉しゅうて嬉しゅうて」と言っております。ね。胃が痛むんです。ね。そこには、やはり不摂生だったこともあったかも知れません。お詫びをしたり、痛いから一生懸命お願いもしましょう。けれどもね、その何かに触れたんです。何かに触れたんでしょうね。「神様はおかげをくださる。も神様の一分一厘間違いのない働き」というものをに、私は触れたんだと思います。ね。勿体無いほどしのおかげを受けるということも触れるということなんですけれどもね。もうこのように間違いのない神様。それを叩かれる場合であってもそれを感じるね。んなら、私の様なこの様な者にでも、神様の願いがあるからこその、神様のいうならばお鍛えである。と例えば、そういうふうに感じたんじゃないでしょうか。ね。私は、それを感じたところから、私は、今日、私が言おうとしておる、言うなら、日々を喜びと感動、いや喜びと驚き、ね。いうならば「畏れ入る。もう神様の働きには畏れ入る」これは驚きなんですね。そこからいうならば「うれしゅうて、うれしゅうて」と痛いから痛い涙も出るかも知れません。悲しい涙でしょう。けれども、その向こうには「嬉しゅうて嬉しゅうて」という信心の喜びがあるのですね。それに気付かせて頂いた時の、驚きが、その、ー昨日一日の「嬉しゅうて、嬉しゅうて」という事になったのじゃないでしょうかね。皆さん、どうでも一つ、ね 本気で日々をね、もう本当にね、嬉しゅう有難い、いうなら信心の喜びと同時にです、言うならば、驚きを感じれれるほどしの信心を一つ身に付けたいものですね。確かにおかげはね、不正直者でもね「信心しておかげを受けるという事は別物」と。「人の良いのと悪いのと」と言うことではない。その証拠には、んなら「神様、仏様の様な人」というても、「難儀な事が続くとどうした事であろうか」と世間では不審がる様な事がある。あげん一家中で良か人達ばっかりとに、どうして、あそこはあげん難儀が続くじゃろうか。と言うのが、やっぱ、私共の周辺にはあるです。けども、あげな奴どんが信心して、ところがやっぱおかげ頂きよる。というのがあるでしょう。だから、そのおかげの世界からね、いよいよ信心の世界ね、それは、私は信心の喜びと同時に、驚きの世界だというふうに思うんですね。どうぞ。